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GldbergAria -
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満月を見ながら想い出してみませんか・・・

そして、明日は月のうさぎさんに心配かけないように元気をだしましょう。

あなたが元気なら月のうさぎさんも安心して、虹の橋であなたを見守ってくれるはずです。

「ありがとう。そして、さようなら・・・・・・・また会うその日まで」

 

 

 

☆☆ ピータンへ ☆☆39通目の手紙
 


ピータン、あなたが虹の橋を渡ったのは、2007年7月17日でしたね。
8年9ヶ月の生涯でした。虹の橋を渡りお月様での生活はどうですか?
満月を見るたび、あなたの事を思い偲ぶ日々を送っておりますが、
未だあなたの遺骨を納骨出来ず、あなたの写真と共にリビングに置き、
あなたが家に来た日、そして命日には今もお線香とお花を手向けています。

昨日AM2:10、あなたの弟分だったセキセイインコのピコが、
10歳6ヶ月と3日の生涯を全うし昇天しました。
ピータンとピコ、一緒に過ごした時間は1年と1ヶ月足らずでしたが、
ピコが初めての冬を迎えた時は、あなたの肉垂れの下にもぐり暖をとっていた光景は
今もしっかりと目に焼き付いています。

あなたがこの世を去って6年後、また新たな子ウサギを迎え入れ、
今年の2月で3歳となりました。ピータンはミニうさぎの女の子、今の凛はレッキスの男の子
品種・性別は違えど、しぐさがあなたにそっくりです。

あなたの時と同様、ピコの鳥かごはあなたの(凛の)ゲージの上に置いていたので、
上の住民がいなくなったと凜もわかっている様です。

ピータン、もうすぐピコがそちらに行く事と思います。
どうか暖かく迎えてやってね。そして、満月の夜は二人一緒に魂となってこちらに帰って来て下さい。
いつまでも、いつまでも、あなた達を忘れませんからね。
二人仲良く幸せに暮らせる様、こちらから祈ってますよ。


(2016.12.9 記)

 

 

 



♡♡ ビットへ ♡♡ 38通目の手紙
 

☆ビットへ

ビット、お月様での暮らしはどうですか?
毎日楽しく遊んでいますか?
飼い主はお別れしてからずっとビットと過ごした10年間を想っています。
一人暮らしに馴染めなくて、実家に泊まってばかりいた飼い主の為にお迎えしたビット。
一人暮らしではなくなって、77毎日あなたが待つ家に帰るのが楽しみになりました。
って言うより、生活の中心がビットになっていきましたね。
震災の後も飼い主の不安な心を支えてくれました。
ビットとの10年間は語り尽くせないけれど、本当に幸せでした。
ビットはどうでしたか?
ずっと健康だったあなたが涙を流し始めた頃からお別れの日が近づいてきて、
そこからの飼い主の選択が全て間違っていたのでは?
と今でも後悔の気持ちでいっぱいです。
でも、あなたを介護した毎日は出来るだけの事をしたと胸を張って言えるので、
ビットも納得して旅立ってくれたと信じています。
介護の日々、CMでよく流れていた「にんじゃりばんばん」のフレーズを
何度もビットに歌って聞かせましたね。
今でもこのフレーズを聞くとあなたの介護の日々を想い出します。
最期の夜、飼い主の膝で一緒に深夜映画の「ザ・ウォーカー」を観ましたね。
主人公が盲目だったのか結局最後まで分かりませんでした。
飼い主にとって忘れることの出来ない映画になりました。
あなたの旅立ちを見送ってから、テキパキと手続きを進める自分の冷静さが信じられなかったけれど、
ペット斎場に電話をしてペットの種類を聞かれて「うさぎです。」と答えた瞬間に実感が湧いて、
電話の相手に自分の住所も名前もまともに伝えられなくなってしまいました。
頼りない飼い主ですね。ビットが居ないリビングは一人には広すぎます。
動作動作の合間にビットを見る、何かするたびに心の中でビットに話しかける、
そんな習慣はなかなか抜けそうにありません。
照明を点けるのも暖房を点けるのも、テレビのボリュームを上げる時も
ビットが過ごしやすいようにと調整する癖も当分続くでしょうね。
昔の写真を見ていると、もう一度ビットに触れたいという気持ちになります。
もう一度ナデナデしたい。でもその願いも叶うことはないんですね。
もし今後、新しい子をお迎えしてビットと同じ様に精一杯の愛情を注いでも、
ビットの事は決して忘れません。
あなたは飼い主にとって特別な存在だったから。
今まで本当にありがとう。心から愛していました。
お月様でも幸せに暮らして下さい。

ビットうさぎ(2013.3.27記)

 

 

 

 


☆☆ 最愛のそらへ ☆☆37通目の手紙


最愛のそらへ

たくさんたくさん苦しくて辛い思いをさせてごめんね。
一番頑張ってるのはそらだったのに、いつもいつも頑張れって追い詰めていた気がします。
最期も苦しかったよね…もっともっと私に出来ることはあったはずなのに、
何も出来なかった…本当にごめんなさい。
でも、そらは最期まで本当によく頑張ったね。えらかったね。おりこうさんだよ!
そらは宇宙一の頑張り屋さんだよ!
私の下手なご飯の介助や臀部浴やグルーミング、マッサージなどに頑張ってくれてありがとう。
まずいお薬も頑張って飲んでくれたよね、ありがとう。
6月から半年も辛い日々が続いたけど、それでも私はそらの傍に居ることが出来て嬉しかった。
闘病生活の半年は24時間ほぼ一緒だった…私にとっては、かけがえのない大切な時間だった。
でも、もっともっとたくさんの時間を一緒に過ごしたかった。

初めて出会った時、本当に本当に可愛くてその瞬間から、私の人生はそら一色の人生になった。
そらが居てくれたから嫌なことも忘れられたし、仕事も頑張ろうって思えた。
そらが居てくれたから私、本当に本当に幸せだった。
そらがブッブッて鼻を鳴らして寄って来てくれる姿をもっと見たかった。

バナナの時のものすごいハイテンションのそら。
本調子じゃないのに私を見て嬉しくてジャンプするそら。
ドアまでものすごいスピードで走って迎えに来てくれるそら。
高い所に登って満足気のそら。カーテン遊びが大好きなそら。
トイレから、又はダンボールハウスからダッシュして寄って来てくれるそら。
お腹いっぱい食べてごろんするそら。うとうと眠りこけているそら。

まだまだたくさんあるけど、いつも一生懸命に生きてくれたそらの全てが愛おしいです。
もっとこの気持ちを伝えたかったよ。でも…たくさんの可愛いそらちゃんを、
最期に見せてくれて本当にありがとう。私は幸せ者です。
最期の瞬間まで大好きなそらと一緒に過ごせたから。エゴだと思うけど、
でも感謝せずにはいられないんだ…。本当に大好きだから。
恩返しが出来なくてごめんね…。もう苦しくないよね…。
大先輩のウェンディちゃんやミントくんが迎えに来てくれると思うから…
虹の橋で私のことも待っていてくれる?向こうでも絶対に一緒に暮らそうね!
そうそう、あと九日でBIRTHDAYだったから、パーティーはその時に一緒にしようね。
約束だよ(^-^)

そらちゃんの事が永遠にずっとず~っと大好きです。愛してるよ。
そらちゃん、ありがとう。こんな私と一緒に過ごしてくれて。
そらちゃんに恥じない生き方をするって約束するよ…だから、空から見守っていてね。
最後にもう一度…そらちゃん大好きだよ!

P.S.こっちでは疲れ果てたと思うからしばらくはゆっくり休んでね。
そして虹の橋のお友達と仲良く楽しく過ごしてね。絶対迎えに行くから。

2009年12月5日 永眠

 

 

 



☆☆ ちゃいへ ☆☆36通目の手紙


ちゃいへ・・・

幸せに暮らしていますか?
楽しく過ごしていますか?
初めてできた沢山のお友達と毎日何をしているのかな?

ちゃい・・・
ペットショップでちゃいに一目ぼれしたママは、「家族になろう!」と決めて、
ちゃいと一緒に暮らし始めました。
ケージから出すと、ぶぅぶぅ鳴きながらママの後を追いかけてきたね。
ママの足とコアラのぬいぐるみが恋人だったね。
ママが笑っている時、泣いている時、喜んでいる時、怒っている時etc・・・
いつも一番傍にいてくれたね。
ママはちゃいがいてくれるだけで嬉しかった。

ママは今年のゴールデンウィークに旅行に行く計画を立てていました。
でも、ちゃいの具合が悪くなって、ママはママのパパとママと相談して
旅行はキャンセルしようと決めたその日の夜中・・・
ちゃいはお月様に帰って行きましたね・・・。
きっと電話の内容を聞いてたんだね。
ちゃいのばか!
そんな気遣いはいらなかったよ!
ちゃいが生きていてくれるだけでよかったのに・・・。

ちゃい・・・
早く会いたいよ!!!
グレーの艶やかでフワフワの温かい体を撫でたいよ。
お腹に顔をスリスリしたいよ。
チューしたいよ。
ちゃい、愛してるよ!!!これからもずっと!

PS・パパの家の「まこ」が、昨日ちゃいのいるお空に行きました。
仲良くしてあげてね。

(2009年5月31日 記)

 

 

 

 



☆☆ シナモンへ ☆☆35通目の手紙


シナモンへ

シナモンが突然お月様へ引っ越ししてから半年、

そして8月13日は6歳のお誕生日。お月様でたくさんお友達出来た?

もしかして彼女も居たりして・・・。


12月に血尿に気がついて、病院へ連れて行って「尿結石」と診断されてからも

絶対すぐに治るって思ってた。とりあえず投薬と食生活改善、

あまり効果が見られなくて手術を勧められても、きっと手術で元気になると思ってた。

うさぎの手術に関して獣医さんは、色々なリスクを説明してくれて

それでもシナモンは大丈夫だと。

術前の検査もうさぎさんにはかなりストレスになるからと言われて、

レントゲン、血液検査もきちんと大人しくさせてくれて褒めてもらったし、

健康診断でも大人しかったからね。

病院へ通い出してちょうど1ヶ月後に手術が決まって、これでシナモン元気に

なるなって安心してたのに。

朝、シナモンを預けて、入院はしないといってたからご褒美にサラダ菜、

りんご、バナナを買って帰った。

お昼からの手術でおそらく14時~15時に電話が掛かるかと待っていたら・・・

「残念ですが、シナモン君手術中に亡くなりました」

電話でも簡単に説明してもらったけど、何が何だか分からず病院へ行くと、

小さな箱に小さなシナモンが入ってて、初めて涙が。

結石のある場所が思ったより、取りにくい場所で手術時間が延びて

心臓が耐えられなかったと説明をしてもらった。

未だに、色々な後悔があって、涙も。

けど、シナモンは頑張ったし一緒に暮らした5年間は楽しかったよ!

色々イタズラもしてくれたけどね。

毎年、うさぎが喜ぶはずのおもちゃを誕生日にプレゼントしてたけど、

ひとつも気に入ってくれなかったから、今年は自家製サラダ菜にしようと。

春ぐらいからいっぱい葉が出たのにシナモンにはあげられないのが残念かな。

ちゃんと写真の前には置いてあるからね。

お月様に居るお友達と一緒に食べてね。


同じように愛兎とお別れしたみなさんと知り合えて、

シナモンが大切にされてきたうさぎさん達とお月様で

楽しく暮らしていることが分かって、本当に良かったです。

まだまだ悲しみと後悔は無くなりませんが、

シナモンが幸せならそれでいいと思える日が来るかなと思ってます。

これからも、シナモンと仲良くしてね!


うさうさシナモンより。

(2008年8月14日 記)

 

 

 

 


☆ 愛兎 かぶりんへ ☆34通目の手紙
 


☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・


愛兎 かぶりんへ

かぶりんが月に旅立ってから今日で49日が経ちました・・・

かぶりん、お友達はできた?

男の子なのに引っ込み思案で臆病な子だったから心配しています

我が家にきて7年。最初の3年間は先輩うさぎが居たためにほとんど、

部屋からも出られず可哀想な思いをさせてしまったね

大人になってから『もう馴つかないかな?』と思いつつ、

一日一日と接していくうちに仲良くなれて本当に良かったと思います。

いたずらもせず目立つ子ではなかったけど、我が家の中心的存在でした。

たとえ出かけられなくても、かぶりんと居る時間がなにより癒され楽しい時間だったよ☆

家族が夕飯の時間になると、かぶりんも一緒にごはんを食べ、

たくさんお話して、一緒にお昼寝もしたねっ!

たくさんの思い出はけっして忘れる事はないよ

7歳のお誕生を過ぎたころから、ごはんを食べられる量が減ってきて

様子が変だと思い度々病院に連れて行って診てもらって

検査してもらったけどこれといった原因がわからず、

それがかえって高齢のカブリンにはシンドかったのかな?

自分の判断が間違っていたのか?後悔し責めたりもしています。

最後は頭も支えられず、立てなくなってしまい苦しかったよね

助けてあげられなくてゴメンネ。

今、家族それぞれかぶりんに対する思いがあるので聞いてね



おじさんから・・・

今こうしている時でも・・・まだつらいです  

でも、かぶとおじさんだけしか知らない事が支えになってるから

一緒に幸せになれると思ってる。

かぶ必ずお墓かうからな! 

いまだに「かぶよ~」って毎日言ってるおじさんより



ともちゃんから・・・

もう49日かという感じがしています。

ずっと一緒という日々が当たり前になっていた私には、

どうしてもまだ家にかぶりんが居てケージから出さなきゃって思ってる

自分がまだあったり。

でも姿が見えないだけで、ともちゃんはまだかぶりんとずっと一緒にいる気持ちです。

普通に家で遊ぶし、寝るときも横で一緒に寝ているし、

バイトでからあげもてつだってくれているし。笑

だからともちゃんはいまだにかぶりんとずっと一緒にいる気しかありません!!

ともちゃんも色々あったけど今は本当に毎日が楽しくってしょうがありません。

辛いこともあったけれど、最近は前向きに考えられるようになったよ!

かぶりんもいろいろあると思うけど、辛くってもくじけちゃだめよ!!

必ず笑える日がくるはずだから!!

これからも辛さ<楽しさの人生を一緒に歩んでいこうね。

ごんちゃん、うめこ、もぐちゃんにもよろしくね!!

これからも末永くよろしく!笑

ぼさぼさともちゃんより、、、。



まいちゃんから・・・

最近かぶりんがお家からいなくなっちゃったと思ったのに

もう49日が経つなんてなんだか不思議です。

かぶちゃんが調子が悪くなっちゃったとき、「また治るから大丈夫」

そう思っていた自分が憎くて仕方ないです。

結局かぶりんにとっての奥さんという役割、果たせませんでした。

ただそういう風に言ってただけで実際は

かぶりんのためになることをできませんでした、ごめんね。

今年はたくさんのタンポポ、咲いてるよ☆

きっと神様がたくさん食べなさいって言ってるんだと思うよ(・U・)ノ

たとえかぶりんがお空にいるとしてもタンポポ拾ってくるから待っててね♪

もう泣いちゃいけないの分かってるけど、やっぱり涙は止まりません

かぶりんはすごく大きい存在でした、

これからもその存在の大切さを自分の心の中にしまっておきたいです、

最後に・・・

自転車でお出かけしたかったな。。。

お空の上で浮気しちゃ駄目だよ!!

これからも旦那様でいてくださいな*><*

本当にたくさんの思い出

ありがとう★☆



おばさんより

いつも“チョコン”と側にいてくれたかぶりんが居ないのは寂しいけど

かぶりんは心の中に永遠にいるよ。

かぶりんと出会えた事に感謝!!

またかぶりんと逢えるよね。その時までかぶりんも忘れないでよ!!

虹の橋のお友達、かぶりんと仲良くしてあげてくださいね。

モグちゃん、ウメコ宜しくねっ。



また満月の夜にはいっぱーいお話しようね、かぶりん★



☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

(2008年5月22日 記)

 

 

 

 

ぽん太・・ぇ☆(きよポンさん)33通目のレター
 


Ponta …?Pontaが ぉ月sanに帰ってちょうど四十九日だね。。
ぉ友達ゎ沢山出来た?
ぉ友達みんなに優しくしてぁげてるかな?
それとも ゃんちゃぶりを発揮しすぎて…
みんなを困らせてなぃ?(笑)
Ponta …運命って皮肉なもので
Pontaと過ごして来たこの八年もの日々の細かな一っ一っが
鮮明にPontaが居なくなってから蘇ってきちゃって仕方なぃの…
Pontaが居た頃ゎ
過去をチラッと振り返る事ゎ ぁってもPontaとの
その日その日の事ばかりを未来の事を夢見ながら過ごして暮らして居たから…。
Pontaゎ…ぃっまでもKiyoちゃんの傍に居るもんだと思ってた…。
『思ぃ出』ってょく口にしたり耳にする言葉だけど…ね
でも、この言葉が こんなに辛ぃ苦しぃ悲しぃ言葉だった事を
Pontaを失って初めて知った…ょ。
だってPontaとの思ぃ出ってもぉ現在、未来ゎ無くて全てが過去なんだもの…
凄く辛すぎる。

Pontaが居なくなった12/8から月日がたって
今、Kiyoちゃんゎ 居なくなった事を受け入れてる自分と
まだ受け入れる事が出来なぃ自分が居るんだ。

今 仕事頑張ってるのだって…
Pontaの居なぃ家に居るのが嫌だから 。。。
でもPontaの祭壇に沢山色んな物を買って供ぇてぁげたくて
ぉぃしぃ物を食べて欲しくて…その為に働ぃてる自分も居て…
まだ …ゃっぱPontaの居なぃ生活にゎ戻れなぃダメなKiyoちゃんが居るょ。。

この間の満月の夜
ぉ月sanにウサギさんの姿が見ぇた
きっとPontaかなと思って…
ずっと見てた。
PontaからKiyoちゃんの姿ゎ見ぇたかな……?

この四十九日を迎ぇるのゎ
凄く複雑だったょ…
と言ぅのゎ Pontaがずーっっと使ってた
『Pontaの部屋』を片付けしなくちゃならなぃから…
それゎPontaがぉ月sanで安心して暮らせる為に
そしてPontaが天使になれるョォ …
Kiyoちゃんがママとして きちんとしてぁげなきゃならなぃンだょね。。

でも それをしちゃぅと…
Pontaが『Kiyoちゃんゎ僕の事忘れちゃぅんぢゃなぃか』って
悲しくなるんぢゃなぃか 不安になっちゃぅんぢゃなぃか …って
凄く怖くてこの日が来るのがとても怖かったんだ。。。

でも周囲のKiyoちゃんゃPontaを大切に想ってくれてる人達ゎ
皆、『そんな事Pontaが思ぅはずなぃでしょ。
Pontaゎ‘ぁりがとぅ、Kiyoちゃん大好きだょ’って思ぃながら
ずっと見守ってくれてるはずだょ』って。。

Pontaが居なくなったぁの日以来…
今日迄
涙も出ず…悲しぃのに 寂しぃはずなのに
笑ってるKiyoちゃんが居て…
御飯を食べてるKiyoちゃんが居て…
なんで なんで こんなに元気になれてるの?と自分で思ってた。

泣ぃたり悲しんだりしたらPontaが心配するから笑ってなきゃ
って…でもそんな自分が辛かったょ
なんで、涙が出なぃんだろって……
だけど今 祭壇で手を合わせてるとね
初めて声を張り上げて…涙が出たの。
12/8 2:28Pontaの命の炎が消ぇたぁの時のょぉに……
それ以来泣けなかった自分を責めてた
自分ゎPontaに対して、愛情が足りなかったんぢゃなぃかなって…
冷たぃママだなって……
なんでこんなに笑ってられるの?って………

ぁんなに元気だったのに容態が急変する前日に
KiyoちゃんがPontaに何かしちゃったんぢゃなぃか…
Pontaのぁんなに苦しませて死なせてしまったのゎ
Kiyoちゃんだったのかもって………

もっと元気に長生き出来たはずなのに……って。。

Ponta………?
Pontaゎ Kiyoちゃんがママで本当に幸福だったのかな……?

でも生死をさ迷ぃながら Pontaがょく頑張ったぁの一週間……

酸素ゲージに居ても ひたすらKiyoちゃんの膝に来ょぉと
フラフラでしてくれてたょね…
その想ぃを信じてイィんだょね…
ねぇ Ponta
Kiyoちゃんを誰ょりも愛してくれてたんだょね………

Ponta……?
Kiyoちゃんゎ ずっっと……
何年経ってもPontaゎアタシの大好きな大切な自慢の息子だょ!

Kiyoちゃんが、ぉ婆ちゃんになっても
本当に『虹の橋』で出会ぇる事を信じてる。。


Ponta…
と過ごした八年間。
大変な思ぃも苦しぃ思ぃも…本当いろぉーんな事がぁったけど…
そんな全部全部をひっくるめて
Pontaに出会ぇて幸福だった…。 Ponta!!
『ぁりがとぅ』

Kiyoちゃんゎ もぉ泣かなぃょ。
Pontaが命の全てを賭けて…
愛してくれた…
Pontaが大好きで居てくれた
笑顔のKiyoちゃんで居なくちゃね
ぽ~んた ぽんたっ!
ぽ~んた ぽんたっ☆

ずっーっと…
ずっ~っと…

ぉ月sanから
Kiyoちゃんを見ててね!

姿 形ゎ変わっても
KiyoちゃんゎPontaを探し出す!
Ponta!!
大、大、でぇ好きダァーッ!


Kiyo☆

(2008年1月26日 記)

 

 

 

 


■□■ ぽん太・・へ■□■(きよポンさん)32通目のレター
 


Ponta…ぉ月sanゎ どぉですか?淋しくなぃ?

ぉ友達が沢山居るからヘーキかな?

体ゎどぅ?辛くなぃ?苦しくなぃ?痛くなぃ?

沢山のお花入れてあげたけど、すこしは眠れてるかな?

この一週間眠たくても苦しくて眠れなかったものね・・・



今朝、Pontaが息を引き取る瞬間 Kiyoちゃんの指を『ギュッ』と掴んだ…

ぁの感触が消ぇなぃょ…

Kiyoちゃんの腕の中で 天使になっちゃった ぁの腕の温もりが…

息を引き取った後…朝迄 ずっと添い寝したね

涙が止まんなかったょ…

だって ぃっもなら添い寝したらKiyoちゃんの手を舐めてたぢゃん

でも…………舐めてくれなぃ。

淋しいョォ。



先週の木曜 突然体調が悪くなり…異常なまでに衰弱してぃく中で

KiyoちゃんゎPontaの生命力の凄さにビックリさせられたょ…

急に流動食さぇ ゲポゲボしながら呼吸も苦しぃから

吐きながら口に含んでたょね



苦しぃのに『生きたぃ!』って一心で懸命に食べてたょね…



先生からゎ 今夜もぉダメだと言われ…一週間 本当頑張ったね

先生に Pontaがぉ月さんに伝えたら…『本当に頑張った。

褒めてぁげて下さい』と言ってた…

病院からPontaに、ぉ花 送ってくれたんだょ!

今、Pontaの傍に飾ってぁるからね…



この八年間…本当 体が小さい分、病気がちで何度も 生死をさ迷い

二人で乗り越えてきたょね…

Pontaが元気になるなら何でも出来た…

今回もそぉ願ったけど もぉ奇跡ゎ起こらなかったね…



でも…今回の苦しみゎ今迄で1番酷かったものね

Ponta?ぁんたゎ 本当凄ぃょ!Kiyoちゃんの自慢の息子だょ!



Pontaゎとても優しぃ子だから

Kiyoちゃんが 落ち込んだり泣いたりしてると、ぃっもゎ走り回るくせに、

そんな時ゎ静かに膝に来て…ぃっもひたすら舐め舐めして

心配してくれてたょね…



今回も Pontaが体悪くなってから…泣ぃてばっかいたから

又心配して動けなぃ辛ぃ体で、必死で頑張って

Kiyoの膝に来ようとしてたのかな………



Kiyoちゃんが 夏、長期入院した時も 何処行くにもっぃて回る甘えたsanが

淋しいのに心配かけなぃょーに良い子で居てくれてたもんね………

本当 ぃっも私は Pontaに支えて貰ってたね…



Pontaがいたから今迄 どんな事も乗り越えてこれたんだ…



ねぇ 覚えてる?

七年前 この家に二人で越して来た時の事…

まだ家財道具も布団も無くて

二人で一枚の毛布に包まって毎晩寝てたょね……(笑)



Pontaが居なくなった今

やけに思い出されます…



Ponta…?

姿、形ゎ変わっても 又Kiyoちゃんの傍に逢いに来てくれるょね…

ぽん ぽん Ponta!

 大好きだょォ!!

Kiyoちゃんでした

(2007年12月8日 記)

 


 

 



■□■ ぶりちゃんへ■□■(かめパパ&ゆきママさん)31通目のレター
 


ぶりへ

ぶりちゃん、今はどこにいるの?もう虹の橋にいるの?

小さな体で本当によく頑張ったね。今はもう痛くない?

苦しくない?歩けるようになった?

ママはまだ、朝から晩までぶりのことばかり考えてるよ。

昼は泣かないでいられるようになってきたけど、夜はやっぱり泣いてしまうよ。

ぶりが居なくなってから、お部屋が広くなってしまったよ。

ママ1人で使うには寂しいよ。

ママが辛い時、苦しい時、ぶりはいつも傍に居てくれたね。

ママはそれだけで元気になれたよ。

この世界で誰よりもママを理解してくれたね。

ぶりといる時間に戻れないかな?

ママ、どんなに辛い事も我慢する。それでも戻れないのかな?

だけど、ぶりを失うことより辛い事なんて無いよね。

苦しいよ、寂しいよ。

ぶりちゃん、逢いたいよ。

もう一度抱きしめてチューがしたいよ。

ぶり、可愛いぶり、世界一可愛いママの娘。

本当に沢山幸せをくれてありがとう。

人付き合いの苦手なママは、ぶりに沢山救ってもらったよ。

ぶりに出逢えて、ママは本当に本当に幸せでした。

最後の時、ぶりの傍に居なくてごめんね。

一人ぼっちで逝かせてごめんね。普段傍に居てもこんなんじゃ意味無いよね。

肝心なとき役に立たないママでごめんね。

面倒くさがりで、我侭で、神経質で、泣き虫で弱虫なママでごめんね。

本当にごめんね。

ぶりにしてあげたい事が、今になって次々と出てくるよ。

いつか、ママがそっちに行くまで、良い子で待っててね。

ぶりが待っててくれるなら、いつか死ぬこともママは怖くないよ。

ぶり、永遠にずっとずっと愛してるよ。これからもずっと。

ママの子に生まれてきてくれてありがとう。大好きだよ。

いつか生まれ変わるときは、またママのところに来てね。

約束だよ。ママも一生懸命ぶりを探すからね。



                 ママより
(2007年7月11日 記)

 

 

 

 



■□■ Lovery and Dear Tibisyuke ■□■(ママちゃん)30通目のレター


ちびくんへ

ちびは兄弟のなかで一番小さなうさぎさんでお店の方も
大丈夫かと心配していたそうですよ。
でも、鼻水、くしゃみをしながらも元気にペレットを食べ
順調に育っていると思っていました。
でも、ママは鼻水、くしゃみが心配だったので
家に来て3日目に病院に連れて行きました。
おとなしく点鼻薬をして2ヶ月程で完治と言われ安心していました。
まさか、これが膿瘍のはじまりとは思いもしませんでした。
毎月、健康診断に行っていたのに
なにか、おかしい・・・安定した状態ではない・・・
それで、転院して神戸から尼崎の病院まで通ったんだよね。
タクシーでの30分は疲れたね。
でも、よく頑張ったね。

頬の下の腫れに気が付いたのもママだったね。
歯の根元の膿だと言われ1本抜くだけと言われたのに
お迎えにいくと4本も抜かれていて・・・・
酷い、あんまりだ、人間だって4本も一度には抜かないのにと・・・
でも、また出て来ると先生は言ったんだよね。
でも、とうとう死ぬまで生えて来なかったね。
野菜も食べ難かったよね。
頬を切られ、歯を4本も抜かれ、さぞ痛いだろうと思い
毎日、毎日痛み止めを打ちに行ったね。

名古屋への転勤が決まっていたので元気になって新幹線にと
思って焦ったのがいけなかったと後悔しています。
名古屋の家はうさぎを診てくれる獣医さんの病院の
近くへとの思いと神戸は幹線道路沿いで
騒音で煩かったので、少し不便でも皆に我慢してもらい
風邪通しと日当たり、リビングの広さ
南と北にベランダがあるのでここに決めたのだよ。
思った通り、気に入ったようで神戸の時より
くつろぎ、走りまわってくれたので
ママはとても嬉しかった。

でも、毎日、毎日死の恐怖を感じて2時間以上
お留守番をさせる事が出来ない過保護のママだったね。
名古屋に来てはじめて膿瘍と診断されて
治る病気ではないと言われた時はショックで驚き
当分立直れないのではないかと思う位だったけど
抗生剤で抑える事は出来ると言われ
ママがちびを支えなければと思い
がんばるぞ~ママが進行を抑えてみせる、健康にするんだと・・

でも、昨年1月又再発してしまい
病名を言われた時より落胆が大きくママが病気になってしまったんだよね。
お布団でママは泣いていたよね。
ママは自分の体の痛みよりちびの世話を出来ないので
ちびが可哀そうで泣いていたんだよ。
ちびの命はママが守らなくてはと思い午後には
起きて野菜を洗ったり、お小屋の掃除をしたり遊んだり

8月になったらがくんと食欲が落ち
もう死んでしまうと・・・
でも、フードプロセッサーで野菜を細かくしたら
がつがつ食べてくれて、嬉しかったよ。
ちびはまだママから離れたくないんだ。
死にたくないんだ。
生きていたいんだ。と思ったので
強制給餌をして頂ける病院を探し転院したんだよ。
神戸の時から数えて6件目でした。
即、入院!!!

暑い、暑い名古屋の夏でしたが寒気がして暑さがどこかに行ったみたい
その日から毎日2回面会に通って抱っこして・・・・
パパが入院した時は一日一回だったんだよね。
だってちびが心配で毎日行くのも減らしたかった。
その頃から腎機能が低下してきていて毎日の点滴にも耐えたね。

先生もよくしてくれたね。
一番の思い出は、ちびの調子が悪くなった12月の日
病院のスタッフ達の忘年会の日だったのに先生が駆けつけてくれたんだよね。
亡くなった1月24日は病院の休診日だけれど
入院の動物が居るので急患や点滴の必要な動物は
診てもらえるので点滴にいったら
いつもはおとなしく点滴をするちびが
嫌だと意思表示をしたので
今日が別れの日かもしれないと嫌な予感がしたんだよ。

だから、帰って来てもいつものように直ぐに下ろさなかったでしょ。
最期だろうから一杯抱っこをして
ちびの感触を一杯、一杯感じて居たかったんだよ。
買い物にも行かず、ず~とちびにくっ付いていたね。
残された時間を大事にしたかった。

ママが今日がちびとの別れだと泣いたので
先生も心配して何か変化が有ったら遠慮せずすぐに
来るよう電話をしてきてくれたね。
いよいよ駄目かも?タクシーの中で抱っこしたまま
死ぬかもと思ったけれど、それはそれで幸せかもと思い
思い切って病院に連れていったんだよ。
酸素室に直ぐに入れられ先生付き添ってくださって
でも、夜の8時なので先生が帰った後で
息を引き取ったら、翌朝冷たくなったちびを
スタッフが発見なんて可哀そうなので連れて帰りたかった。

でも、先生が10時まで残ってくださると
仰るので、これがちびとの別れだなと覚悟をして
”ちび”さようなら。ありがとう。よく頑張ったね。
もうママのために頑張らなくて良いよ。と
声を掛け、生きてるちびを見られるのは
これが最期思いました。

帰宅して直ぐに病院から電話があり
”20時46分”に永眠しました。

もう少し居たら見届けたのにと思う気持ちもありますが
ちびが元気に走り廻っている姿だけを
覚えていて欲しいと思っての選択だと解釈して
悔やまないようにしようと考えました。

3ヶ月が過ぎ、私の体もやっと回復をしてきました。
毎週、カサブランカを買って供えるのが今の私の生活です。
ちびには過剰診療をしているのではないか?
飼い主のわがままで治療をしているのではないか?
動物にも尊厳死があるだろう。

とか、色々悩み、苦しみ、一杯泣きもしました。
生命を預かるという事の重みも感じました。
無償の愛も知りました。

ちびのためなら苦にならなかった。
なんでもしたつもり。
有機野菜を求めインターネットを駆使しました。

悲しく、寂しく、あの感触を感じたい
でも、後悔がないのが楽です。
後悔だけはしたくなかった。

今はちびが死んでしまうかもしれないと言う
恐怖から解放されたのと最期まで守れたと言う自負
そして最後の病院の先生に感謝の気持ちです。
初七日後に挨拶に伺った時、泣いてくださったのが
有りがたくて感謝しています。

夢の中で会えたらな~
lovery and dear tibisyuke

ママちゃんより

(2007年5月6日 記)

 

 

 

 



■□■ 私たちのくりへ ■□■(くりココさん)29通目のレター
 


「オレが行くと寄って来るんだ。他はダメ、オレだけ!可愛いんだぁ・・・」

コザクラインコを探して訪れた2件目のショップで
セール価格となっていた貴方を彼が見つけてくれました。
~それとも、私たちを待っていてくれたの?

こうして、2003年 5月30日 に我が家の愛娘となりましたね。
生後3~4ヶ月位とのお話で、私たちは、勝手に貴方のお誕生日を桃の節句に。

貴方の名前は彼が瞬間に決めちゃって・・理由は、毛色が栗色だから。
あっけにとられましたが、私は当て字で「玖莉」として。
ずっと私たちに何かを与えてくれる娘にとの意を込めて。

・・・くり・・・
びっくりしぃの臆病さと 気にし過ぎなところは、ショップの日々が長かったから?
いつも 私の行動を気にしてて、いつ寝ていたの? ~大変だったね。

最近、真夜中にはいつも、相談と愚痴を聞いてもらいましたね。
何度もいいタイミングで私の手を舐めてくれたり、うなずいてくれたり・・・
余計に泣いちゃった私に首を少し左に傾けて
「ぷぅ~ぷぅ~」もしてくれたね。 ~解ってくれてたんだよね。

『愛してる』・・日常化した言葉に陳腐さを感じていた私は口にはしなかった。
だけど違ってた。 意味が・・・、相当に深いそれを解っていなかっただけ。
何かしてあげたら、その見返りが来るのが当たり前的な私だった。
貴方に出逢えて、そして失って、私は始めてそれに気付きました。

・・・くり・・・「ア・イ・シ・テ・ル」

とても大きな代償で、私に この感情を教えてくれた貴方に、
「ありがとう」と「ごめんなさい」を繰り返させてください。

仕事を理由に、遊ばせてあげられなくて 本当にごめんなさい。
ベランダに行くとカーテン裾のヒラヒラ短冊を見る度、切ないです。

突然やってきた、あの場面は 悪夢そのものでした。
あと1週間で4歳だった・・・その桃の節句が奇しくも初七日。
大きく 深い 言いようの無い悲しみです。 ~今も、これからも。

虹の橋のおともだちのみなさんへ。 
私たち自慢の長女です。キレイで優しくて、やんちゃな面もあるんです。
・・・こちらでは、とても辛い思いをさせてしまいました。
~どうぞ、よろしくお願いします。

・・・くりちゃん、くぅ~ちゃん、くり之介、くり太郎、くりぃ!・・・
いろんな呼び方でも、いつも振り向いてくれて ありがとう。
私たちの不規則な生活に耐えてくれて ありがとう。

大好きだよ。
ず~っと大好きで 愛しています。 私たちの娘 くり へ。

(2007年3月29日 記)

 



■□■ ありがとう☆ヴィヴィアン ■□■(香織ママ&パパさん)28通目のレター
 


一昨年の10月に結婚をした私たちが1匹のウサギを買いに行ったのは、
結婚翌月の11月でした。
メスだと言われて買ったら数週間後にオスであることが発覚したヴィヴィアン。
その後は専業主婦だった妻と一日中生活を共にし、寝る時と出かけるとき以外は
いつもゲージから出して1Kの部屋に放し飼いにしていました。
部屋中を自由に飛びまわるせいで何かといたずらされることも多かったけど、
次第に懐くようになり、この頃では私たちが行く場所行く場所ぴょんぴょんと
ついて来るようになり、私が仕事に行く時は必ず玄関先まで来て
チョコンと座って見送ってくれました。

歯並びがもともと悪く、一月に一度は必ず動物病院に連れて行って伸びすぎた歯を
切ってもらっていたけど、1,000円で購入したウサギなのに毎月歯切るたびに
1,000円かかるなんてずいぶん高いウサギだな~なんて、
冗談を言っていたこともありました。
歯が伸びすぎてしまうと食べることができなくなり、
そのせいで他の病気になることもあるから、様子がおかしかったらすぐに病院に
つれてきて下さいと以前から動物病院の先生には言われていました。
毎回歯を切ってもらうたびにカラダ全体を検査してくれて、
おかしいところがないかチェックしてくれた親切な先生。
その先生がその日は休みだった・・・

2/10朝、いつもならゲージを開けるとすぐに飛び出してきて
部屋を何周かするヴィヴィアンが、なぜか今日はじっとしたまま動かない。
どうしたのかな、と思ってよく見るとエサが全く減っていないことにが気づいた。
歯が噛み合ってないせいで食欲がないのかと思ったけど、
どうもそういう感じでもない。目が虚ろでグッタリしているという感じなのだ。
私はその日仕事があったので、ヴィヴィアンは妻に動物病院まで
連れて行ってもらうことにした。
そしたらいつもの親切な先生ではなくて、前にも一度会ったことがある
若くて愛想の悪い先生がいたのだ。
まず、いつものように歯を切ると「これで食欲は戻ると思いますよ」と一言。
特にカラダ全体をチェックすることもなく、ただ歯を切っただけで終わった。
妻はその言葉を信じてヴィヴィアンを家に連れて帰ってきたが、
数時間経っても一向に食欲が戻る気配はない。
妻は夕方もう一度ヴィヴィアンを連れて動物病院まで行き、
そのことを先生に話すと、「そしたら食欲増進の薬を出しておきましょう」と。
家に帰ってその薬を与えたのが17時半頃。
妻はヴィヴィアンの様子を随時メールで報告してくれたが、
私が仕事から帰れるのは早くても19時頃。とても仕事が手につかない状態だった。
そんな妻から電話がきたのは18時半頃。
今まではすべてメールでの報告だったのに、何か悪い予感・・・
そしてその予感は当たった。
「もうダメかもしれないよ~・・・」
私が電話に出るなり妻は泣きながら今の様子を説明してくれたが、
ほとんど言葉になっていなかった。
ヴィヴィアンは、薬を与えた直後からどんどんカラダが衰弱していき、
下半身が麻痺したように硬くなっているというのだ。

私は仕事を終えるとすぐに家に向かった。
グッタリと横になっているヴィヴィアンと、その横で泣きじゃくる妻。
下半身付随の人間が必死に上半身だけを使って「ほふく前身」しようとするように、
ヴィヴィアンは必死に上半身だけを動かして立ち上がろうとしていた。
ただ、下半身に触ると体温が低下しているのがよくわかり、
カラダはカチカチに硬くなっている。まだ生きてるんだから諦めちゃいけない。
私はそう自分に言い聞かせたかったが、同時にもう無理かもしれない
という思いも強く、目頭が熱くなるのを抑えることができなかった。
必死にネットで調べてみると、そういう症状になったときは
とにかくカラダを温めることが大事だと書いてある。
それに従って私と妻はカラダを温め続けたが、
病院の先生はそういうことは一言も言わなかったらしい。
いつもの親切な先生がいれば・・・
泣いて話すことのできない妻の変わりに私は動物病院に電話した。
すると電話に出た年配の女性はこっちの名前も確認せずに、
「今日注射したウサギですよね?一時的に衰弱してるのかもしれません。
カラダを温めて砂糖水を飲ませてください。
それが続くようなら明日の朝一番に連れてきてください。」
妻に確認したが今日は注射なんて打っていないのだ。
カラダを温めることも砂糖水を飲ませることも一切言われていない。
何より、明日の朝じゃもう間に合わないかもしれない。
私は妻と電話を変わった。
「今日注射なんて打ってません。もうカラダが硬くなって自分じゃ動けないんです。
どうすればいいんですか。」妻は涙を必死に堪えて話していた。
その時だった。
キーーーーーッ!!
ヴィヴィアンは私が背中を温めているその目の前で突然奇声を上げたのだ。
「いま奇声を上げました!! もうヤダ・・・」
妻は受話器をもったまま、とうとう堪えていた涙が溢れ出した。
「奇声を上げたらもう危ないです」
受話器の向こうでそう説明する声は、とても事務的で冷たい口調だったそうだ。
妻は体を震わせながら受話器を置いた。
奇声を上げたヴィヴィアンはそれでも必死にカラダを動かそうとしていた。
私と妻は諦めずにカラダを温め続けたが、次第にカラダは硬直していく。
まず床にもたれていた頭が動かなくなり、開いたままの目も視点が定まらないような
状態になり、そして時々動いていた前足も完全に動かなくなり、
ピクっと動いたシッポも気のせいかと思うほど小さな動きで、小さく、
でも確実に刻みつづけていた心臓も最後には動かなくなってしまった。
2007年2月10日 20:13
享年1歳 ヴィヴィアン虹の橋へ旅立つ

動物病院への不信感、そして自分達の無力さへ対する憤り。
もう少し長生きさせてやることはできなかっただろうか。
そう思うと私たちは言葉を失い泣きつづけた。
奇しくも命日となった2月10日は、新しいアパートへの入居日だった。
引越しは次の週の予定だったけど、10日から入居は可能となっている。
「今度新しい家に連れて行くからね」
「新しい家は3Kだよ。広いからいっぱい遊べるよ」
そんな風に話しかけていた言葉が今では空しく蘇ってくる。
今度のアパートは動物は飼ってはいけないことになっているから、
近所の人にバレないようにヴィヴィアンを運ぶには夜運んだほうがいいとか、
ベランダに出ていかないように柵をしたほうがいいかなとか、
今となっては何の意味もない心配になってしまった。
動物は人間の言葉がわからないなんて人間が勝手に思っているだけで、
そんな私たちの会話をヴィヴィアンが聞いていたんだとしたら、
「心配しなくてもいいよ。ボクは新しい家にはいかないんだよ。」
なんて言いたかったのだろうか。
実際ウサギは環境の変化に敏感で相当ストレスをためやすい動物だから、
最近引越しの準備で部屋が雑然としていたり、出かけることが多くて
カマってあげられなかったことがストレスになっていたとしたら、
とてもかわいそうなことをしたと思う。
そうじゃなくても私は最近風邪を引いて仕事から帰ると寝込んでいたし、
妻も腰痛がひどくて昼間は横になっていたというから、
誰も遊んでくれる人がいなくて寂しかったのかもしれない。

ウサギって寂しいと死んじゃうんだよ
何度も聞いたことのある言葉だったけど、
ヴィヴィアンには亡くなる前に寂しい思いをさせてしまったことを謝りたい。
最近カマってあげられなくて、ごめんね
新しい家に連れて行ってあげれなくて、ごめんね
1年ちょっとの短い間だったけど、いっぱい楽しませてくれてありがとう
これからは好きなだけ自由に遊んでいいからね
翌日、ヴィヴィアンの遺体を連れて新しい家を案内してあげました。
もう今までの家には誰もいないからね。遊びに来るときはこっちの家に来るんだよ。
それとも虹の橋でいっぱいお友達つくって遊んでるから、
こっちに遊びに来ている暇なんてないのかな。
それなら虹の橋に迎えに行くまでずっと待っててね!

ヴィヴィ!短い間だったけど、たくさんの思い出をありがとう!

(2007年3月6日 記)

 

 

 

 



■□■ 愛兔&愛息子 アトムへ ■□■(パンダママさん)27通目のレター
 


アトム 月で元気にしてますか?
アトムが月に行って21日目になりました。
月ではお友達のウサギさんたちと楽しく遊んでますか?

アトムが月のウサギさんになってしまってから
ママは毎日泣いてます。

アトムがママの前から姿を消してから
昼間出かけることが多くなりました。
前はアトムがいて 出かけたいってあまり思わなかった。
でも 今はアトムいないし
部屋にいるとアトムのことばかり思ってしまうので
電車に乗って 百貨店へ行って 歩き回ることが多くなりました。

アトムが月に行ってから パパとは一度も喧嘩してません。
アトムがいなくなって パパなりに反省したのか
前ほど パソコンにのめりこまずに お休みの日は二人で
サーティーワンいってアイス食べたりして 少しかまってくれるようになりましたよ。
会社の保養所のパンフレットを持ってきてくれたりします。

新婚時代とはいえないけど でも仲良くやってます。

パパなりに気をつかってくれてるんでしょうね。
ママがさみしがってると思って。

買物先のスーパーで野菜売り場を通ると
アトムがよく食べてたサラダ菜 大好きだったリンゴ
あまり好きじゃないけど 仕方なさそうに食べてたブロッコリー
チンゲン菜。。。目にはいります。
でも 買物のカゴに入れることも減りました。

部屋のあちらこちらには まだアトムの毛が残ってるけど
  でも 部屋に舞うことはなくなりました。

子供がいない私にとって あなたは 少しだけ手がかかる
可愛い子供でした。
お薬飲ませるの大変でした。
病院行くときに気をつかいました。
チモシーをあまり食べないウサギさんでした。

でも アトムは 奥歯の不正交合でつらい思いを
たくさんしたけど 頑張ってくれましたね。
全身麻酔を何回もしたし 下痢もつらかったね。
腸が動かなくなってしまったとき 毎日点滴しに病院へ行って
頑張ってくれましたね。
寄生虫がついてしまって 首の後ろに10円禿げが出来ちゃった時も
大嫌いな注射しに10日置きに病院通いましたね。
生まれてはじめてのお風呂も経験しましたね。

最後は肺に腫瘍できて。。。苦しそうに息していましたね。

でも ママも苦しかった。何もしてあげられなかったから。

今はもう 月で思いっきり走ってると思います。
でも ママはアトムがいなくなって 寂しい。
下界で あなたがいた部屋で 毎日泣いてます。
月でお友達ができても ママのこと忘れないでね。
いつか ママがアトムのことを迎えにいけるときが来るまで
忘れないでね。

(2006年8月25日 記)

 

 

 

 



■□■ ラブちゃんへ ■□■(ゆみさん)26通目のレター
 


ラブは、本当に特別な存在でした。
家族以上に、親友以上に近い存在だったように思います。
我が道をいくタイプの気位高いうさぎで、言うことなんて全然聞いてくれなかったですが、
それがかえってよかったように思います。
私が死にたいほど落ち込んだときも、
ラブが「落ち込んでる暇があったら私の頭なでろ」
とばかりに近寄ってきてくれたことで、支えになってくれていました。

ラブは友人の山で暮らすうさぎから生まれた子。
3か月目にうちに引っ越してきました。
好奇心旺盛だけど臆病、タフだけど繊細、
この3年間一度も病気もしたことのない元気な子でした。

それなのに3月8日、朝から何も食べなくなった。
仕事から帰っても元気がなかったけど好物のバナナはなんとか口にしてくれました。
「うさぎが食欲なくなったら危ない」と言うことを聞いていたので、
病院につれていくことを考えました。
同じ市内にいくつかある動物病院のうち、2件を候補に挙げました。
一つは毎日夜8時半まで営業している近所のアットホームそうな動物病院。
もうひとつは少し離れているけど4人の獣医さんが勤務していて
11時までの夜間診療も行っている病院。
たまたま後者の病院はその日休診日だったので、アットホームな病院につれていきました。
レントゲンの結果はおなかにガスがたまっているとのこと。
でも薬は必要ないので強制的にもよく食べさせるようにとのことでした。
次の日、その次の日とラブは元気になり、
いつものぺレットもわらも食べるようになったので、
「やっぱりタフだなあ」と安心していました。

実は、ラブは以前少し太り気味だったのです。
友人が遊びにきてラブを見ると「うわあ、まるまるしてるね!」とよく言われ、
それが気になってここ数カ月ご飯を体重の5%に制限していたのです。
獣医さんから「この子はやせてますよ。もっと太ってもいいくらい」と言われて
間違っていたことに気付きました。
これからはもっと食べさせよう。
好きなバナナも毎日少しずつでも食べさせよう。
そう思っていた矢先でした。

3月13日、九州ではありえないくらい冷え込み、雪がちらついたその日。
夜仕事から帰ったらまたラブの様子が変なのです。何も食べなくなっている。
好物のバナナも乾燥パインも鼻をひくひくさせるだけで食べようとしません。
強制的に食事をあげないと、低血糖で死んでしまう、そう思い、
スポイトでパインジュースやすりつぶしバナナを口の中に入れてみましたが、
ぺろぺろとなめようともしなかったのです。
ラブがこんなに弱るなんて、、、。

10時過ぎに夜間救急受付をしている病院にタクシーで駆け込みました。
いつもはキャリーケースに入るのをとっても嫌がるラブなのに、
もう抵抗する力も残ってなかったのです。
病院で体温を計ってもらってなんと35度、「もう死んでいこうとしている状態です。
無理かもしれませんが、保温と点滴、やれるだけやってみたいと思いますが
どうしますか?明日の朝までもってくれたら、
検査や原因となった病気の治療もできると思います」。
「ラブが死ぬ」、一緒に暮らしはじめた頃から分かっていた事実のはずなのに、
突然やってきたそれは、とても受け入れがたいものでした。
ラブの目のこれまでにない弱々しい光で、
もう駄目かもしれないという思いがよぎったものの、
あきらめたくなかったのです。私は治療をお願いしました。

雪が降る中とぼとぼと家に帰り着いた14日の1時半、
携帯がなり「申し訳ありません。ラブちゃんは先ほど息を引き取りました」と
獣医さんからの電話を受け取りました。
「できれば明日の朝にでも引き取りにきていただきたいのですが」と言われましたが、
ラブを病院に一人にさせておくなんてかわいそうで、すぐ引き取りにいき、
最後の夜を一緒にすごしました。

次の日は仕事を休み、ペット霊園で火葬とお葬式を挙げていただき、
お骨を持って帰りました。
お骨にお線香をあげながら、もっとラブにできることがあったのでは、
もっと病院に早くつれていっていたら、
うさぎは弱い動物だと認識している必要があったのに、
どうして信頼できる獣医さんを早く見つけておかなかったのだろう、
最後の瞬間を一人にさせてしまった、
という後悔や自分を責める気持ちでいっぱいになります。

思えば月へ旅立つ前日、いつも以上にひざ元に近寄ってきて
「頭なでて」といっていました。
ラブはお別れを言いにきてくれていたのかもしれません。
今頃は大好物のバナナでも食べているかなあ。
今でもラブがひざ元にいるようで、ラブがここにいないことが不思議でたまりません。
(2006年3月19日 記)

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